息子ふたりは怖がりなところがある。一緒にいる時も「トイレ行くから付いてきて」、「歯磨き行くから付いてきて」とひとりで行くのを怖がる、ふたりとも。晩御飯を作っていたりして「今は手が離せない」と断ると「いいから早く!」となる、ふたりとも。どうしても無理と断られるとひとりで行ったりもするけど、戻ってくるときはバタバタと足音が聞こえて急いで戻ってくるのがわかる。それはそれはとても愛らしいものです。一緒にいない時にも、「店長〜、電話〜」とジムの電話が鳴って出れば、「トイレ行くから付いてきて!」と急いでいる様子。聞けば「スマホにかけたけど出なかったから!漏れる!」と、それだけ我慢をしてでも怖いのだろう。
とてもわかる。
怖がりというのは遺伝なのか、自分が彼らと同じ年齢だった頃を思い出す。共働きでおばぁちゃん子だった私も、何を隠そうトイレとお風呂が怖かった。何が怖いのかと言われれば、”おばけ”が怖い。正直に言えば、今でもおばけは苦手だ。
ひとりでお風呂に入る時には、たいした用もないのに「おきばちゃーん(祖母の呼び名)」と祖母を呼んで、お風呂の扉の外の洗面台の前にいてもらえるように画策したものだ。祖母が台所に戻ろうとすれば、よくわからない話題を新たに出してとどまるようにこれまた画策した。祖母もわかっていたのだろう、お風呂を上がるまでそこにいてくれたことを良く覚えている。
このトイレコールもいつかはなくなる。彼らからのトイレコールが私を嬉しい気持ちにさせていることを彼らは知らないだろう。トイレが終われば彼らにはゲームに戻るので、「付いてきてくれて、ありがと!」、「うん、いいよ。」と電話はあっという間に終わりを迎えるのだ。電話を切る前に「電話してくれてありがとう」と伝えられることもあれば、電話が切れた後に、”いつまでトイレコールはかかってくるかな?”とふと頭に思い浮かべるだけのこともある。
この気持ちは”感謝”だろう。彼らも私に感謝をしているが、私も彼らに感謝をしている。今度会った時に話そうか、「君たちに大切な人ができて子どもを授かることがあるかもしれない。そうしたら、きっとその子も怖がりだろうね。聞いたことはないけど、きっとじぃじも怖がりだったかも。そうしたらトイレに付いて行ってあげるんだよ。」と。
それは未来の君たちに幸せをもたらす行為で、同時に僕にも幸せをもたらすだろう。その時に君たちは僕のことをちょっと思い出してくれるだろうから。僕が祖母を思い出すようにね。その未来の幸せの芽を想像して、種を蒔こう。
<君たちがこれを読んでいるなら>
僕は曽祖母より上の代を知らないけど、もし怖がりが遺伝するものなら、この幸せは僕たちのものだけではないはずだ。君たちはそれをどこまで想像するだろう。その想像力は君たちを強くすることを約束するよ。自分の知らない、その先の関係のあるところにまで想像力を導けるか、考えてみて欲しい。その先には、”関係”となんだろう?その”関係”を極限まで拡げたならどうなるだろう?色々と想像してみてはどうだろうか。
相互信頼 相互尊敬